カワチ•イチロー先生
役職
・ハーバード公衆衛生大学院 社会行動科学学部 学部長・教授
・Harvard T.H. Chan School of Public Health
・John L Loeb and Frances Lehman Professor of Social Epidemiology
・Chair at department of Social and Behavioral Science
キャリア
1961年東京生まれ。
12歳で父親の仕事の関係でニュージーランドに移住。
オタゴ大学医学部卒業。
同大学で博士号を取得。内科医として同国で診療に従事。
1992年よりハーバード公衆衛生大学院。2008年にハーバード公衆衛生大学院社会・行動科学学部長に就任し現在に至る。
主催する講座は、公衆衛生大学院の必須講座として年間400人が受講し、ハーバード大学で行なわれている一般向けの無料のオンラインコース「Harvard X」にて主催するHealth and Society (健康と社会)も世界中から32000名の聴講者が募る。
国際的科学雑誌「Social Science & Medicine」の編集長。
米国科学アカデミー(NAS)に属するアメリカ医学研究所(IOM)メンバーにも選出。
社会疫学研究の第一人者として高い評価を得ている。

Harvard Medical School外観
ニュージーランドでの経験から公衆衛生の道へ
――臨床から公衆衛生へ進んだきっかけはなんでしょう。
私はニュージーランドで内科医をしていましたが、毎日の診療は数種類の生活習慣病の患者さんがほとんどを占め、治療してもまた何かのきっかけで状態が悪くなって帰ってくるという状態の連鎖でした。
このような日々の中で、日々の臨床に疑問を感じるようになりました。
川の下流で治療を続けるよりも川の上流に立ってもっと生活習慣病のそもそもの原因となるものを予防できないかと考えるようになったのが私の公衆衛生への入り口です。
ちょうどその頃、ニュージーランドでは禁煙運動が始まり、当時のニュージーランドの厚生労働大臣にあたる政治家は世界で初めてすべてのタバコの宣伝の禁止と全ての受動喫煙の禁止を掲げた法律を成立させようとしていました。
私はまずその運動に参加したのですが、自分で行った研究が取り上げられて一気に法律に反映されるという経験をしました。
その時に、実際に何千万人もの命を救う事ができるという事を実感し、こういったやり方もあると気付くことができましたね。
臨床医として下流に立って治療にあたる医師、公衆衛生の専門家として上流に立ってアプローチする医師、医療にはどちらも必要だと実感しました。
――カワチ先生の公衆衛生の入り口は実際にご自身が臨床の中で感じた疑問から始まっているのですね。

公衆衛生でのキャリア
――公衆衛生といってもすごく広い分野だと思いますが、近年は疾病構造が変化し、生活習慣病が主要となっている中で、より公衆衛生が果たすべき役割が大きくなってきているように感じます。このような時代に公衆衛生を志す学生のキャリアにはどのようなものがあるでしょうか?
すごく幅広いですね。
大雑把にいうと私のように大学に残って研究に携わる人と、実際に現場でフィールドワークをする人に大別されると思います。
発展途上国でマラリア対策をする、世界銀行やWHOで勤めて公衆衛生関係のプログラムを実施する人など、公衆衛生大学院の学生でも結構いますね。
大きくはこの2つの進み方で、前者は少数で、メインは後者(実際に現場でフィールドワークをする人)ですね。

Harvard Medical School 講堂
――各国行政機関やWHOなどの国際機関に勤める人が多い一方、医師では臨床研究に携わったり、またまたアマゾンヘルスCEOのガワンデ先生のように企業に行ったりと多様ですよね。
8割以上は行政機関に勤め、1割強が研究機関に勤め、残りの1割弱がプライベートな企業に行ったり、ベンチャーに行ったりする印象ですね。
確かにその中で臨床医をやっていて1年のMPHコースを受講しに来て臨床試験の道に進む方も日本人には多いですね。

臨床か研究か進む道を決める
――臨床医でMPHを取るというキャリアはどうでしょうか。
確かに臨床医の先生でMPH(Master of Public Health)の資格を取って臨床をしながらいい研究をしている先生もたくさんいるし、そういった意識は素晴らしい事だと思います。
ただ、私の印象では臨床も研究もどちらもしている先生は、みんな臨床か研究のどちらかに重心を置かれている方が多いですね。
ただ、個人的な考えでは、研究も臨床もどちらもパートタイムでこなせるものでは決してないので、キャリアとして考えるなら僕がそうだったように、どちらかの道に進むか決めた方がいいと思います。
臨床の先生と同じように、研究していても研究の夢を見るくらい毎日研究で頭一杯ですから(笑)。
それくらいどちらもやりこむ必要があるのでなかなか両立は厳しいとは思いますね。
日本の公衆衛生はまだまだこれから
――日本ではアメリカと比較して学生感覚では公衆衛生という学問はまだまだマイナーだと感じます。アメリカでは医学部を1年休学して公衆衛生大学院にMPHを取得しにくる学生がいる一方で、日本の医学部生で卒後に公衆衛生領域に進む方は少数だと感じます。
日本とアメリカではまだまだ公衆衛生という学問に対する意識に違いがありますね。
日本も最近になって公衆衛生の学位がとれる施設が増えてきましたが、アメリカと同じくらい独立した公衆衛生大学院は未だないですよね。
また、日本の厚生労働省職員のほとんどはMPHを取得していませんが、アメリカで同様の施設に当たるHHS(Health of Human Services)やCDC(Center of Disease Control and Prevention)では、MPHを取得していないとそもそもそこで職を得ることすらできません。
MPHを取得した公衆衛生のプロが行政機関に少ないという意味では日本の公衆衛生もまだまだこれからだと言えますね。
――受動喫煙に関する政策など遅れていると言われていますね。日本の大学のMPHとアメリカの大学のMPHには違いはあるのでしょうか?
まずアメリカは公衆衛生大学院として独立しており、様々な領域の専門家が多くいる一方で、日本は医学部の一部で公衆衛生を専門にしている医師が多く、その他の統計学者や疫学者は教員として少ないですね。
そういった意味で公衆衛生の基礎をしっかりつけるという意味ではアメリカの方がいいと思います。
ハーバード公衆衛生大学院ではフルタイムの教員だけでも180名おり、徹底的に基礎を叩き込まれます。

Harvard Medical School内部
――日本の公衆衛生政策に関して。確かに日本の公衆衛生はまだまだこれからかも知れませんが、国民皆保険制度のもとで世界と比較しても、公衆衛生上高い健康アウトカムが実現できていると思います。
実は日本における長寿の達成は、公衆衛生の成果ではないと考えています。
日本は国民性としてソーシャルキャピタルなどの社会的な繋がりが強いですから、公衆衛生政策の成果以前に、自然に長寿が実現されたという側面もあると思います。
もちろんソーシャルキャピタル以外に生活習慣などの要因もありますが。
国民皆保険制度は素晴らしいと思いますが、長寿への寄与は限定的だと思います。
アメリカで国民皆保険制度を導入しても、日本のような長寿大国には決してなれません。
また、日本の公衆衛生政策は、先ほども出たタバコ政策やトランス脂肪酸の禁止など、まだまだ遅れている部分も多いですね。

――日本ではトランス脂肪酸含有のマーガリンやお菓子など普通に販売されていますね。
それにも関わらず世界一の長寿を達成していて、医療政策でも、生活習慣でも徹底的に理由が説明できないから、裏にソーシャルキャピタルが効いているんじゃないかというのが私の仮説ですね。
一方で、日本の寿命の延伸は現在フラットになっていて完全に頭打ちです。
それに比べてイタリアやオーストラリアなどはどんどん伸びていて、10年以内には日本を追い抜くと考えられています。
そのような状況で、日本が世界一の長寿大国を維持するためには、公衆衛生政策がとても重要になってくると思います。
――これまでカギとなっていたソーシャルキャピタルも、日本はどんどん希薄化してきているように思えます。
そうですね、希薄化してきています。
その原因は何かというと格差問題です。
バブル破綻後、ソーシャルキャピタルは低下してきており、そこにも対策が必要だと考えています。
――根本的に格差問題は資本主義経済につきまとってくる課題ですね。
その通りです。基本的には、資本主義と経済的な問題ですが、それに取り組むのが社会疫学だと思っています。
逆にこういった経済の問題は、政治の世界だけではなく、公衆衛生、つまりは健康にも影響を及ぼしているという事です。

カワチ先生が講義をするPublic Schoolの教室
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