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「Slowly, but Surely ~つまずいたっていい。一歩ずつ着実に。~」 留学前編

光冨 徹哉先生

光冨 徹哉先生

 

キャリア

医師。医学博士。専門は呼吸器外科。肺癌治療。近畿大学医学部外科学講座呼吸器外科部門主任教授。肺癌の外科治療治療を専門とするほか、分子標的治療にも造詣が深い。前日本肺癌学会理事長。次期世界肺癌学会理事長。日本呼吸器外科学会理事。日本臨床腫瘍学会理事を歴任。九州大学医学部卒業。同大学院医学研究科終了。米国国立がん研究所研究員。愛知がんセンター中央病院胸部外科部長、同副院長を経て、近畿大学医学部外科学講座呼吸器外科部門主任教授。

 

 

みなさんこんにちは。Catalyst広報、日本肺癌学会広報大使の中川結理です。今回はCatalyst顧問でもある世界肺癌学会理事長、光冨徹哉先生にお話を伺いました。

まずはじめに、皆さんに質問です。

Q.世界肺癌学会理事長になるにはどうすればよいと思いますか?

人一倍、目標意識を持つことでしょうか、優秀である事でしょうか。英語が堪能である事でしょうか。研究ができる事でしょうか。気合いでしょうか。スタミナでしょうか。コミュニケーション力でしょうか。この問を携えてこのインタビューを読んでいただけたらと思います。

 

『ニコニコおじさんは世界のMitsudomi…』

 

2018年12月1日、第59回日本肺癌会学術集会の最終日。私は初めて光冨先生に出会いました。この後、一対一でインタビューする日が来るとは、この時は予想だにしませんでした。

この年に1度の学術集会のために、全国の肺癌学会に所属している医師達は日常臨床の隙間を見つけて準備をしています。発表がきっかけとなり、脚光を浴び、人々の命を救うことに繋がります。世界から製薬会社、医療機器会社、医療従事者、医療関係者が集まる。京王プラザホテルを3日間借りるこの学術集会。その最終日の閉会式。

「では、次の第60回日本肺癌学会の代表、日本肺癌学会理事長、光冨徹哉先生の挨拶です。」と司会者は言いました。拍手喝采の中、壇上に上がる光冨先生。第60回のポスターを発表し、また拍手の渦。そして最後に、私は日本肺癌学会広報大使として、共に写真に撮って頂きました。

 

しかしながら、次から次へと光冨先生には人が寄ってたかり、話す暇さえなかったのでした。失礼極まりないですが、その時の私には、どこにでもいるようなニコニコした普通のおじさんにしか見えませんでした。そして、肺癌学会理事長と言われても、雲の上の人と言ったら良いでしょうか、あまりにも偉い役職過ぎて、私には関係のない人。別世界を生きる人。としか捉えることができませんでした。

 

肺癌学会事務局の方々からもよく聞いていました。素晴らしい先生だと。しかしながら、話す暇さえなく、ただただ、伝聞での「素晴らしい光冨先生」と目の前の「拍手を浴びている光冨先生」を頭の中で融合させることしか、その時の私にはできませんでした。そう、その時の私には、先生が世界のMitsudomiと呼ばれる理由はわかりませんでした。

 

インタビュー当日

 

2019年2月16日土曜日、私は光冨先生の元へインタビューをするために朝9時半に家を出ました。その週明けには消化器のテストが待っており、そちらも心配でした。しかし、正直そのテストなんてどうでもよくなるくらいで、今から会う光冨先生にどのようにインタビューして良いのか、本当に困り果てていました。

 

その前日、Catalyst代表の瀬口さんからどのようなことを聞けば良いかのリストをもらっていました。しかしながら、私は不安で仕方なく、どういうわけか光冨先生の過去の論文を読み漁り始めていて、その時の瀬口さんからのメール。「論文!(笑)中川さん、落ち着いてください。ざっくりとした内容で大丈夫です。想定している読者は医学生なのでattitudeが学べる内容ならば大丈夫です。」そして、その返信、「なるほど!すいません!気合が入りすぎて論文読んでしまったようです!」と私。このような迷走ぶりでした。

 

さらに、私の住んでいる富山から近畿大学医学部までは片道、約6時間。インタビュー開始時刻は4時。なんと乗り換えが4回もあるではないか!まさか『世界のDr.Mitsudomi』を待たせるわけにはいかない。もっと、きちんと時間を計算すれば良かった。と、インタビュー時間に間に合わないのではないかと冷や汗が止まらなくなりました。インタビュー内容を考えている余裕もなくなりました。富山駅についてお土産を買わないと。と思いつき、富山地ビールの盛り合わせセットとワイン似合う富山限定おつまみセットを買いました。さらに、長旅になると思い紙袋を3枚も、もらってしまいました。お土産を買ってホッとしたのも束の間、すぐに激しい後悔の念に襲われ、、、というのは、約6時間の長旅。ビールはとても重いわけで。それだけではなく、揺れに揺れ、最高潮に暖まった新幹線と特急列車。泡立った上にぬるい。という最悪なビールをプレゼントとすることに他ならないいということです。自分のとった行動のアホさ加減にもう失神寸前でした。しかし、反省している余裕すらありませんでした。

 

富山駅から北陸新幹線で金沢駅へ。さらにそこからサンダーバードに乗り換え、大阪駅へ。そこからローカル線に乗り換え新今宮駅へ。そしてさらにそこから乗り換え金剛駅へ。この途中で乗換え口が複雑で迷いに迷い、通りゆく人に聞きまくり、助けて頂きました。そして金剛駅からバスで近畿大学へ。

 

やっと到着しました。到着する直前、光冨先生から「ついたら電話してください。」と。電話番号を添えて頂きました。いやいやいや。肺癌学会理事長に電話などできません。と思ったのも束の間、キャンパスは物凄く広く、早速迷子。そして、やむ終えず、電話をかけ、「初めまして、富山大学の中川と申します。キャンパスがとても広くてどうやら迷っております。」「何が見えますか。」と光冨先生。「ガラス張りのエントランスにいます。」。「わかりました。そこまで迎えに行きますね。」と光冨先生。「!?」と思ったら、そこには光冨先生。「荷物持ちましょうか。」と言われ、「いやいやいや、大丈夫です!」と私。思い描いていた肺癌学会理事長先生、白い巨塔の財前先生のような近づけない人物像を描いていましたが、今自分の目の前で荷物を持ってくれようとしているのは天使のような優しさの光冨先生でした。このギャップはさらなるカオスに私を陥れました。

 

「タンポポはバケツをかけるとしぼむ」

 

 

—–もともと、医師になろうと思ったきっかけはなんでしょう。

 

光冨先生『親の影響でした。私の父親は呼吸器内科医でした。小さい時はまさか自分が呼吸器外科に進むとは思ってもいませんでしたよ。父親は研究をしたかったみたいなのですが、ツツガムシって知ってるでしょう?父親はそういう分野に興味を持っていたみたいでした。しかし、家の都合や教授の都合でなかなか研究ができなかったみたいでですね、県立の結核療養所の病院長に37歳でなりましてね、彼は結核の患者さんを療養していました。そんな父親の姿を見たからでしょうか。なんとなく医師になることは決めていましたね。

そして、私はこういうのが好きでした。「タンポポは咲いてバケツをかけるとしぼむ。」というのを本で見たことがあって、すぐに実際に試してみないと気の済まない好奇心旺盛な子でした。たぶん、20世紀の前半というのは細菌学が今の分子生物学のように旬な学問だったと思うのですがロベルトコッホに憧れていましたね。パスツールはちょっと性格悪そうなのであまり好きじゃなかったな。このクライフというのが書いた『微生物を追う人びと』、380円って書いてありますね。(笑)そういう本や、ロベルトコッホやパスツールの伝記を買って読むのはとてもお気に入りでした。』

 

 

小さい頃の先生は医師である父親を見て、好きな本を読んで、先生なりの目標とする像を定めていたのかなと思いました。それは、父親と先生のヒーローであるロベルトコッホを混ぜたようなところと言ったら良いでしょうか。私も歯科医師である父親とAI医療を混ぜたような世界に憧れて、一旦は歯科医師となった後に医学部に編入して現在はプログラミングを勉強したりしているのでなんとなくわかる気がしました。

 

 

—–そして、小さい頃の目標通り、医学生となったわけですね。光冨先生はどのような医学生生活を過ごしたのですか。

 

光冨先生『学生時代はわりとよく勉強したと思いますよ。物理や解剖のノートも今見てもよく書いているなと思いますね。ちょっと自慢だと思われるかもですが。(笑)私は、サッカー部に所属していて、サッカーも一生懸命にしていました。サッカー部の副主将も務めました。そして、驚くことにサッカー部の人たちの多くは、九州大学第2外科に入局しました。外科の雰囲気がサッカー部のムードに似ていたのかもしれないですね。』

 

 

文武両道。勉学に勤しみ、部活に励む、本当に絵に描いたような学生生活であったのだなと思いました。そういう私は、学校の勉強、研究室や海外短期研修、バイト中心の生活で、運動部に所属していないので文武両道の文の字しかないですが(笑)

 

—–国家試験を終え、医師になった先生が外科の道に進もうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか。

 

光冨先生『まず1つに当時、不治の病である「がん」の医者になりたかったことですかね。当時、胃がんやら大腸がんやら固形がんの治療に関しては圧倒的に外科が主導権を握っていて、手術はもちろん、補助化学療法から切除不能例に対する化学療法まで行っていました。

とにかく、がんの医者を目指していた医学生の私にとってがんを自分で切除する技術をもち、そのうえ、化学療法や免疫療法までも手がけていた、第二外科の先輩方は大いに魅力的でした。そのうえ、食道、胃、大腸がんから肝がん、乳がん、肺がんなど多くの種類のがんを扱っていましたし、自分の一生を捧げるにはふさわしい職場であると思いました。

もう一つは、サッカーしているムードと外科のムードが似ている感じがしたのですね。

「練習で泣いて、試合で笑う。」

「自分を殺して、全体を生かす」

「協力して、手術をし、あとはお疲れ様と肩を叩きあう。」

 〜〜その辺りが馴染むような気がして外科に進みました。』

 

自分の現在は過去の延長線上にある現在、現在地としての現在、未来への起点となる現在の3つの観点から捉えることができる。「職業選択として医師を選ぶ=医学部に入る」です。しかしながら、医師を選択した後は「医師」はキャリアとしての言葉ではないわけです。「自分はどのような医師としてキャリアを歩みたいか?」わかるはずのない未来に問いかけながら自分の道を進みます。ということは、医学生の自分にはわかりません。

しかし、医学部での学校生活の延長にしかその道は見えても来ないわけで、学生時代にサッカー部であった光冨先生のキャリアを決めたのは実は、サッカー部とその仲間達。その理由はサッカー部の雰囲気が外科と似ていたから。サッカーをやると外科医になりたくなる?とは思えないし、当時の九州大学サッカー部外科学講座という医局だったのかはわからないけれども、「サッカーをしているムード」で外科を選択されたみたいでした。

ロールモデルを父に定めたのは、コッホとパスツール。未来の自分は協力して手術をして仲間と肩を叩きあう自分。それはサッカーで共に練習して、試合で笑う、全体を生かす医学生としての自分により育まれ、サッカー部の仲間達との経験が自分の一生をがん医療に捧げる、それに根拠と真実味を与えているように感じられました。

 

—–晴れて、外科医人生が始まったわけですね

 

光冨先生『それが、本当に大変なことになりました。肝炎になったのです。当時、手術中こそ手袋をしますが、採血は素手です。早朝の採血は研修医の仕事でして、それも週明けなど数が多い。あせって採血リキャップの時にグサッと刺したあれかなと思います。しかも第二外科には食道静脈瘤、肝がん、肝硬変の患者さんがたくさんおられました。「針刺しとかしてもですね、「洗っとけ。」くらいなわけです。

今は、採血して、ワクチンを打ったりとかしますが、当時そういうことはしなかったわけですね。これは当時の病床で自分でつけていた記録です。GPTが1575とかになって、食欲不振も物凄かった。一時は本当に大変な状態になりましたよ。その後、慢性肝炎に移行する形で少し落ち着きましたけど。

主治医には

「もう君は外科医にはなれない。外科医になることを諦めなさい。肝炎になって皮膚科に転向した人もいるよ。自分の活動に枠を作って生きなさい。その枠の中で暮らせば大丈夫だから。」

と言われました。

でも、それでも私は諦めたくなかったわけですけどね。』

 

それでも諦めなかった。と言われ。私は10数秒くらい唖然として言葉が出ませんでした。将来の命に関わりかねない状況の中、私なら外科医になることは愚か、医師になることを諦めると思いました。

 

 

—–凄いです。そのうえ、時はnonA,nonB時代。まだC型肝炎の存在がまだわかっていないわけで、治療法は安静くらい、自分の身に何が起こっているかもよくわからないわけですよね。

 

光冨先生『そうですね。慢性肝炎になって一旦落ち着いた私の話は置いておいて、、、当時は結局、がんは治らない。特に、遠隔転移で肺とかに転移した場合はまず治らないわけですよ。そしてがんは手術だけではだめだよね。という風潮がありましてね、がん関しての理解をより深めなくてはならないと思ったのです。当時、私はそのがんを診断する上で必ず必要となる病理学があんまり好きではなくてね。』

 

—–と言いますと、、、?

 

光冨先生『病理の分野では病理像を見て、「これは顔つきが悪いですね。」「うーん。悪い顔してますね。」とか言ってたのですよ。それが本当に科学的でないな。と思いまして、もう少し、客観データみたいなものがあれば良いと思ったのですよね。

そこで、上司になんとなく、「病理に行きたくないけれど学問はしたいです。」といったところ、「ここに行け!」と言われて『九州大学生体病医学研究所ウィルス学部門』というところに行きました。ここではDNA型腫瘍ウィルスのSV40の研究しているところで、ウィルスを直接培養細胞にかけたりしていろいろなフェノタイプを見るところだったのですが、それが、全然楽しくなかったのです。(笑)というのは、臨床にとっても興味がある私にとっては基礎研究が臨床に繋がっている感じがどうも持てなかったのです。当時、臨床腫瘍学と分子遺伝学は別の学問だと思われていました。それでも大学院では2個の論文を書きました。当時はちょうどRASの点突然変異がヒトのがんから見つかって、がんはDNAの病気と理解されだした頃です。』

 

〜がん遺伝子RASを発見したRobert Allan Weinbergの名著「Cancer」~

 

〜以下の写真は光冨先生の学位論文です。~

 

全然楽しくなかった。に思わず私は笑いました。先生は学位論文から10年の間に、たくさんの臨床腫瘍学、分子遺伝学の分野の論文を出されています。そのような光冨先生でも当初、この分野に取り掛かった時は、こういう風な感情があったことに驚きでした。石の上にも3年とはよく言ったものなのかもしれません。ウィルスの大学院に入って、そこで本気で向きあって研究してきた光冨先生。臨床腫瘍学、分子遺伝学の神様がいるとするならば、その神様達はその魅力を一生懸命に研究に向き合う先生に大いに披露したのかもしれない。と思いました。あくまで私の推測なので偉そうなことは言えませんが。

外科医になり、多くの種類のがんに対して、がんを切除する技術を磨き、切除不能例に対しての化学療法を行う。仲間と共に患者を治療する。思い描いていた未来は、慢性肝炎により自分自身が患者になることで滞ってしまいました。自分が病床にいるときに仲間は多くの手術を行い研鑽していっている中、主治医からは諦めろと言われたわけです。思い描いていたキャリアには無かった、自身の肝臓逸脱酵素を病床でグラフ化する、客観視する、そんな日々。。。自分自身に向き合われた日々だったかもしれない。と思いました。寧ろ、自分自身に向き合わざるを得なかったのではないかと。手術を日常的に行い、病理組織標本と向き合うのではなく、自分自身と向き合うなかで、他の仲間には見えないものが見えておられたのかもしれない。

 

「がんは治らない」。

 

がん患者に対峙する時、当時この言葉は言えないと思います。遠隔転移に対して拡大切除を行う時代、その言葉は言えないわけです。ただ自分が病床で自由を奪われる中で、「がんは治らない」という事実を直視できるようになられたのかもしれないと思いました。今日では一般的な「基礎生物学から臨床応用」という概念は当時の外科医の興味範疇になかったのだと思います。今日では臨床腫瘍学と分子腫瘍学は融合して「分子腫瘍遺伝学」という学問として発展しています。客観的データに基づく「がんの理解」は偶然にも光冨先生を分子遺伝学に引き合わせました。「ここに行け!」は従わざるを得なかった命令だとは思いますが、慢性肝炎と共に、光冨先生にがんと向き合う時間をもたらしたのかもしれません。

 

光冨先生『そして、大学院が終わって松山の日本赤十字病院に行きました。自分が研修医で肝炎になり、大学院に4年間もいっている間に、周りの皆は、手術はできるようになるわ、論文もかけるようになるわで本当に、焦りました。そんな私は、なんとか胃がんの論文を書きました。』

 

 

皆がどんどん医師として現場で経験を積んでいる中、先生は肝炎となって、治療をし、大学院に行ってから臨床現場に戻ったわけでした。物凄いプレッシャーだったのではないかと思いました。私なら人と比べては毎日焦ってしまうと思うかなと。どうして乗り越えられたのでしょう。焦ってもどうしようもないことなのかもしれませんが、私には先生の研修医ノート見るとなんとなくわかる気がしました。人と比べるより、昨日の自分と比べているのでは。と。前にいる一人一人の患者さんと向きあって、懸命に前へ進んでいる若き日の日の光冨先生がいるように私には見えました。

 

光冨先生『そうして、松山赤十字病院での2年間が終わり、ここで卒業して8年が経とうとしていましたが、まだ自分の専門の臓器とかそういったものは決まっていませんでした。とにかく、本当に焦っていました。ある日、教授との進路相談のインタビューで、「松山では消化器外科を中心に修錬して参りました。胃がん、肝臓がん、食道がんなど色々な分野がありますが、ちょっとした手術のスキルがある肝臓とか食道とかの方向に進みたいです」と言ったところ、「呼吸器は良いぞ!」と言われて呼吸器外科を専攻することになったのです。』

 

—–今から振り返ると、それが光冨先生にとっての運命の道だったということですね!!

 

光冨先生『そうですね。(笑)そうしてやっと4月から呼吸器外科に配属されて最初は全然慣れていないのに、呼吸器外科に新しく入ってくる研修医には偉そうにしなくてはならなくて、それが本当に大変でした。(笑)昨日勉強したことを今日は研修医に、「そんなのも知らんの?」とか言うような毎日で本当に辛かったですね。そして、だいぶ慣れてきて、呼吸器チームの力になれてきているかな。と思っていた矢先の忘年会の席で、「光冨、留学してこい!」と言われ、「えー!?」これまたショックでした。』

 

新しい環境に入った時、毎日がヒヤヒヤというか、常にその瞬間瞬間をやり過ごしてフゥー。と一息つく感じという感じといいますか。そして、慣れて来たらまた次の環境、この感じもわかる気がしました。これまたドキドキ、ヒヤヒヤの始まり。兎にも角にも、光冨先生にもそんな日々があると聞いて、驚きでした。

 

—–そうなのですか。留学できると聞くと羨ましく感じますが、、、

 

光冨先生『そこで、大学院で細胞培養とかをやっていたので、そこで研究していたことを活かせるようなとこに行きたいと思っていました。そんな時、胸部外科学会がありそこで手にとった冊子がまさにドンピシャだったわけです!自分が大学院でやっていたことと似た、研究発表があるではないか。と。さらによく見ていたら、、、九大同級生の名前(中西先生:後の九州大学呼吸器内科教授、肺癌学会理事長)があるじゃないですか!すぐに彼に連絡をしましたよ。すると彼は私にとっても親切に留学先を紹介してくれて、ポンポンポーンとすぐに留学が決まりました。』

 

 

留学中編へつづく。。。。

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