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「Slowly, but Surely ~つまずいたっていい。一歩ずつ着実に。~」 留学後編

光冨 徹哉先生

(留学中編はこちらから)

(留学前編はこちらから)

 

 

光冨先生『そして、ここにきて肝炎はどうなったかというと、、研修医の時の肝炎は慢性肝炎となって肝機能異常が続いていましたが、1989年にC型肝炎ウィルスが発見され、その後インターフェロン療法で治ったわけです!

私はそれこそ医学の恩恵に預かったのですよ。このインターフェロンを受けていれてなければ、今頃、肝硬変、肝癌になって死んでしまっていたかもしれませんね。(笑)』

 

—–インターフェロンという救世主が現れたわけで、肺癌専門医として救われる命だったのですね。きっと。神様が先生を救えばいろんな人が救われると判断したのでしょうか、、、日頃の行いが良いというのはこういうことかもしれないですね。

 

光冨先生『そして、その後、産業医科、九州大学、愛知がんセンターと行きました。愛知がんセンターはいわゆる落下傘配属だったわけです。これがまた、本当に大変でした。』

 

——落下傘配属??それはどういうことですか?

 

光冨先生『落下傘配属というのは、愛知県がんセンターの部長職は公募するのですが、留学時ご一緒した高橋隆先生(現愛知県がんセンター総長)のご努力やら、色々な力学が働いて、私は大抜擢された訳です。当時、私は40歳でした。

そしたら、そこでは私以外の部長職以外の人はずっとそこで働いている訳で、あんたは誰???みたいな感じだった訳ですよ。急に若造が落下傘から降りて来て、みんなはその人の話を最初から、「はい」と聞いてくれる訳ないですよね。それでもコツコツ日々の臨床を続けながら、切羽詰まりながらも臨床試験をして、研究もしました。そして、結局、私は16年間ここで勤めました。

当初はつらいこともあったけど、次第に仲間も増え、多くの業績も残せましたし、外部からの認知度もこの抜擢で著名にあがったと思います。そういう意味で愛知県がんセンターには感謝しています。こういった不連続点が人生には必要なのだと思いますね。患者さん達やその家族からの感謝の手紙をもらう一方で、その全員が助かるわけではないということ、また抗がん剤が進歩して、寿命が伸びたとしても、結局、亡くなっている人がいるということは忘れてはいけないことですし、それらを良くするために私達は日々研究しているということを常に念頭に置いておかなければなりません。』

 

—–17年。。。

 

一人一人の患者さんに向き合いながら、コツコツ研究や臨床試験を重ね 、17年。先生とたくさんの患者さんとそのご家族の方が関わり、社会復帰した人、無念にも亡くなっていった人たちの話を一つ一つお聞きし、日々の積み重ねの重みを感じました。先生が日々の忙しい診療の合間を縫って、臨床研究をし続けたこと。そうしてpublishされた論文が1000回以上引用されていることを見て、本当に光冨先生の肺癌分野への貢献度は計り知れないことを痛感しました。

 

光冨先生『そして、肺がんの1次治療もだいぶ変わって来た訳です。2000年には肺がんは一つの病気でしたが、今では、だいぶ分類されてきました。』

 

 

—–まさに先生は、肺癌分野の大発展を先頭で担ってきて、そして、先生は近畿大学医学部へ教授として就任されたわけですね。

 

光冨先生『本当に、私がここまでやってこられたのは、基礎医学の素養とか治療技術はもちろんですけど、やっぱり、礼儀とか思いやりとか、、後輩や同僚、先輩、一緒に働く人、その熱意というのですかね。そして、私を育ててくれた師、そして私を引き立ててくれた友、そういう存在があって今があることは間違いないですね。お世話になった先生が色々祝ってくれたりしましたね。』

 

光冨先生『今でも大切にしている言葉もたくさんあります。』

 

 

「良いと思って始めたことは絶対にやめないこと。やめないことが半分は成就させること。原著は英文で書くことを心懸けよ。英文論文の難しさは語学にあるよりは、寧ろ、語学以前にあることを銘記せよ。すぐ役立つことはすぐ役に立たなくなる。 by井口潔

 

「学会発表は線香花火だから必ず英文論文にしなさい。 by杉町圭蔵

 

 

こうして残している言葉をみて、光冨先生はおそらく、良いと思って始めたけれど、色々な障害が重なってやめたくなったこと何度もあるのだろう。と思いました。本当にやってられないよ、もう!みたいなこと、反吐が出ることは山のようにあったのだろうと。それでもやめないで続けたことが今に繋がっているのだろうと。すぐ役立つことはすぐに役に立たなくなる=コツコツと積み重ねる。それこそが今の光冨先生を形成しているのだろうと思いました。

 

—–そして、2年後には日本肺癌学会理事長。そしてさらに今年、世界肺癌学会理事長となるわけですね。そしてその間でたくさんの論文を書き、国際学会も何回も行なっていますね。論文を書いたり、国際学会で何回も発表する上での心得みたいなものはありますか。

 

光冨先生『そうですね。こんな感じですかね。』

 

 

—–光冨先生、色々なアドバイスを有難うございます。最後に、これから先生の後に続く人たちに何か言うことはありますか。

 

光冨先生『そうですね、自分が通った後にささやかでもよりより良い医学を残そうとすることですかね。

みなさん、がんばって、世界は思ったよりも近いよ。と。』

 

—–光冨先生、本当にありがとうございました。

 

 

 

編集後記

 

インタビューが終わり(インタビューは2019年2月17日でした。)、3月にStanford Universityの西野睡眠研究所へ行くことをお伝えすると、「Stanford Universityの胸部腫瘍内科に仲良しの先生がいるよと、見学していらっしゃい。」とすぐに推薦状を書いてくれました。私は事の重大さが理解できず「えええ、ありがとうございます。」としかいうことができませんでした。さらに、「近畿大学から駅までタクシー待っていたらいつまで経ってタクシーがやってくるかわからないからね。私もちょうど帰るところですよ。」と私を駅まで送ってくださいました。クラシック音楽が流れる車内、緊張のあまり曲もなんだかちょっとよくわからず、ありえない状況に萎縮して助手席にチョンと座りました。駅までの15分間、先生は弟様とお姉様のお話をされました。お二人ともとても優秀で、兄弟のことを誇りに思っているとお話されていました。

 

金剛駅に着き、車が見えなくなるまで、頭を深々と下げました。地面には大粒の涙がぽとぽとと落ちていました。その場に立ち尽くして数分動けませんでした。すぐに、日本肺癌学会事務局の伊藤さんと、富山大学の研究室でお世話になっている杉森先生にメールを書きました。

「どうでしたか?」と杉森先生。「感動して帰りの新幹線で涙が止まらないです。」私は震える手で「肝炎になっても外科医になろうとメスを握り続け論文を書き続けたこと、もし、インターフェロンがなかったら死んでいたと。ものすごい努力家だと思いました。そして、人間力が、、、Stanford Universityの胸部腫瘍内科の先生にその場で紹介状を書いてくださりました。とても共感できたのは最初からうまくいった訳ではなく、障害物だらけで、時には八方塞がりで大変だったみたいです。それでも、諦めなかった。これに尽きると思いました。『諦めたらそこで終わり。』」すると、 「諦めたら終わりですね。」と杉森先生。私は何か宝物を得たかのように、帰りの電車の中、胸がいっぱいになりました。

 

私は歯科医師になって医学部に編入しました。「どんな道に進むの?」とはよく聞かれる質問ですが、私は「歯科と医科を繋げることがしたい。」と答えています。本当のところ、歯科を極めた訳でもない私が、そんなことできるのか?と自問自答しています。綺麗ごとばかり並べて、できもしないことを言うのはどこか胸につかえていました。歯科医×医学生と言う肩書きにどこか溺れているような気がして、そんな自分をいつもどこか恥ずかしく思い、本当にそんな自分が嫌でした。しかし、インタビューを終えて、「そうするしかないのだ。それでいいのだ」と想いました。「そんなにすぐに進路が見えてくるわけではないのだな」と。

ただ、自分に嘘をつかず、自分は何者かをよく知り、何ができて何ができないか、何が好きで何が嫌いか。そのことをきちんとわかる事こそが大事なことなのだなと。そのようなものが光冨先生を形成しているものなのだと知り、焦りが少し取れたような気がしました。光冨先生は、現在63歳、世界肺癌学会理事長ですが、先生が肺癌の世界に足を踏み入れたのは34歳の時でした。現在医学生の私は、まだまだ迷う余地がありそうです。猶予期間を与えられているのかもしれません。ただ、今自分がどこにいて、何をしているか、それだけは嘘のないようにきちんとしようと思いました。

 

それから1ヶ月後、私は3月のスタンフォード訪問研修留学を終えて、1時間40分にわたるこのインタビューを一言一句漏らさずに1万7000字の原稿に書き起こし、それをドヤ顔で現在私が所属する富山大学研究室の杉森先生に見せました。「よく頑張ったね。」との返答を期待していたのですが、、、「なんだこれ。”最低”。」と一言。。。「こんなの光冨先生が見て喜ぶと思うか!!なんであんたのインタビュー受けたと思うか!あんたに期待してんだよ。こんなの持っていったら光冨先生は肩を落とすに決まってる。あんたがなぜインタビューしているのかわかるか、それはあんたが何を感じて何を思ったか、そこに意味があるんだよ。そんなすごいすごいエリートですね、みたいな経歴はググればいくらでも出てくるだろ。そんなのを書こうとしてるならcatalystなんてやめちまえ!」と。褒められるかな、、と期待して先生のところに行きましたが、返ってきたのは罵詈雑言でした。(笑)

 

それから8週間、私がその時に感じたことを回想として、この記事に盛り込みました。それでも、まだひよっ子な医学生の分際の私には光冨先生のキャリアに理解しにくいところわからないところが多く、途中途中その部分を杉森先生に添削、文章の補填をお願いしました。杉森先生は悪性脳腫瘍の幹細胞分裂・増殖に関する研究論文を執筆しています。杉森先生は、悪性脳腫瘍だけではなく肺癌細胞の分裂増殖様式にも興味があると仰います。肺癌と悪性脳腫瘍、部位は違えども光冨先生の研究をすんなり汲み取れない私に多くの助言をくださりました。

 

光冨先生は、なぜどこから降ってきたかもわからないような私にインタビューの機会を与えてくださったのでしょうか?インタビューを編集しながら私が強く印象に残ったのは、「光冨先生も若い時は自分がどんな医者になるのか模索し、ストラグルし続けていた」という事実でした。

往復12時間かけてインタビューをしにきた私に、光冨先生は、どこか昔の先生自身、それは外科医になったばかりで何科に進むかわからない自分、初めての海外留学に仕事が思うように進まない自分、そのような若き日の光冨先生にチャンスを与えてくれた人達に自分自身を重ねるかのように、私にチャンスを与えてくれたのかな、思ったのでした。インタビュー終えた後、この経験を生かすことができるかは私に責任があると想います。

 

光冨先生は今でこそ次期世界肺癌学会理事長として世界を舞台にご活躍ですが、そこまでの道のりは一臨床医であり、一研究者としての日々を積み重ねて来られたのだと思いました。ただ、目の前のミッションを一つ一つクリアしながらも、ヴィジョンと希望を失わなかった先生の姿を捉えられたと思います。私はこのインタビューで物凄く勇気をもらいました。自分自身の道のりに自信を持てなかった自分に「これでいいのだ」と言えるようになりました。自分は何者で、今どこに居て、自分が見て、感じて、聞いて、触って、その上で何を信じられて、何を信じられなくて、何が好きで、何が嫌いで、どんな風になりたくて、どんな風になりたくないか。そういう事実を一つ一つ自分に嘘をつかずに積み上げていけば良いのだなと思わされました。

 

 

読者みなさんどうでしたか。最初の質問を覚えているでしょうか。

これが世界肺癌学会理事長、catalyst顧問の光冨徹哉先生の軌跡です。

この記事を見たみなさんに少しでも何かキャタライズできれば本望です。

 

富山大学医学部4年 中川 結理

 

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